60年代のいわゆる経済の高度成長が爛熟期を迎えた頃、わが国は未曾有の公害問題に遭遇しました。私が大学で法律学を学び始めた頃、チッソ水俣の水銀中毒や四日市大気汚染をはじめとする公害訴訟があいついで、高度成長経済を支えた企業に対して画期的な損害賠償を認める判決を出しました。法学界はその後何年も公害問題の研究に明け暮れたものです。しかしながら損害賠償は、あくまで金銭による、しかも事後的な救済に過ぎず、発生した被害の本当の救済にならない――チッソ水俣の水銀中毒を思い出してください――ということから、公害を発生させない環境を創造することの必要性が認識されるに至り、法律学の研究も、公害から環境へというスローガンのもとに進められるようになりました。その後環境問題はいわば地球化し、ますますマクロの視点から議論されるようになっています。
このような流れそのものに異論のあるはずはありませんが、公害問題から環境問題へという流れの中で、いつの間にか、公害問題の中心的な論点であった責任の所在という問題を希釈してしまったように感じます。岡山大学も、「かけがえのない地球環境をまもり、自然豊かな環境を明日の世代に引き継ぐことが人間社会の基本的な責務である」との認識に立って、教育研究をはじめとするあらゆる諸活動を通して「持続性のある循環型社会を構築し、維持するために地球環境への負荷の低減」に努めることを理念として掲げていますが、現実にはそのために具体的な目標を立て、その理念を実現していく取り組みをすることは、残念ながら組織的には行われていません。その最大の原因は、公害問題で議論された責任の所在を巡る議論が、被害者加害者の相対化ということもあるのでしょうが、環境問題の陰に隠れてしまっているからではないかと思っています。ともかく私自身に即していっても、公害問題を考えていた頃の切迫感がないのです。
今回はともかく、この「環境制御」において、もう一度公害問題の本質に迫る議論の展開を期待したいと思っています。