岡山大学大学院社会文化科学研究科Acta Medica Okayama1881-1671562023『論語集注』(朱熹撰)の日本語訳(述而第七 上篇)―『論語集注』を主とする朱子の『論語』解釈―(1)(12)ENLuyiSUN10.18926/66521No potential conflict of interest relevant to this article was reported.岡山大学大学院社会文化科学研究科Acta Medica Okayama1880-9162232023『論語集注』(朱熹撰)の日本語訳(述而第七 中篇)―『論語集注』を主とする朱子の『論語』解釈―(1)(26)ENLuyiSUN10.18926/66509No potential conflict of interest relevant to this article was reported.岡山大学大学院社会文化科学研究科Acta Medica Okayama1881-1671552023『論語集注』(朱熹撰)の日本語訳(雍也第六 下篇)―『論語集注』を主とする朱子の『論語』解釈―(1)(26)ENLuyiSun10.18926/65135No potential conflict of interest relevant to this article was reported.岡山大学大学院社会文化科学研究科Acta Medica Okayama1880-9162222022『論語集注』(朱熹撰)の日本語訳(雍也第六 中篇)―『論語集注』を主とする朱子の『論語』解釈―(1)(25)ENLuyiSun10.18926/64340No potential conflict of interest relevant to this article was reported.岡山大学大学院社会文化科学研究科Acta Medica Okayama1881-1671512021『論語集注』(朱熹撰)の日本語訳(里仁第四 後半)ー『論語集注』を主とする朱子の『論語』解釈ー(1)(18)ENLuyiSUN10.18926/61597No potential conflict of interest relevant to this article was reported.岡山大学大学院文化科学研究科Acta Medica Okayama1880-9162202021中江藤樹の「徳治」4969ENLuyiSUN10.18926/61541No potential conflict of interest relevant to this article was reported.岡山大学大学院社会文化科学研究科Acta Medica Okayama1881-1671502021『論語集注』(朱熹撰)の日本語訳(里仁第四 前半):論語集注』を主とする朱子の『論語』解釈(1)(16)ENLuyiSun10.18926/61343No potential conflict of interest relevant to this article was reported.岡山大学大学院社会文化科学研究科Acta Medica Okayama1881-1671492020『論語集注』(朱熹撰)の日本語訳(八佾第三 後半) : 『論語集注』を主とする朱子の『論語』解釈(1)(18)ENLuyiSUN10.18926/58149No potential conflict of interest relevant to this article was reported.岡山大学大学院社会文化科学研究科Acta Medica Okayama1881-1671482019『論語集注』(朱熹撰)の日本語訳(八佾第三 前半) : 『論語集注』を主とする朱子の『論語』解釈(1)(17)ENLuyiSun10.18926/57774No potential conflict of interest relevant to this article was reported.岡山大学大学院社会文化科学研究科Acta Medica Okayama1881-1671452018中江藤樹の「太虚」(1)(16)ENLuyiSun10.18926/55786No potential conflict of interest relevant to this article was reported.岡山大学大学院社会文化科学研究科Acta Medica Okayama1881-1671432017朱子の「変化気質」(1)(21)ENLuyiSunGraduate School of Humanities and Social Sciences, Okayama University10.18926/54972No potential conflict of interest relevant to this article was reported.岡山大学大学院社会文化科学研究科Acta Medica Okayama1881-1671422016熊沢蕃山の「気質変化」(1)(19)ENLuyiSun10.18926/54683No potential conflict of interest relevant to this article was reported.岡山大学グローバル・パートナーズ, 岡山大学教育開発センター, 岡山大学言語教育センター, 岡山大学キャリア開発センターActa Medica Okayama1881-5952112015朱子の「情」5574ENLuyiSun10.18926/54536 本稿では、朱子のいう「情」についてできるだけ深く掘り下げて再検討することを試みる。
「天地の情」は、自然界の、「公正無私、健やか、和やか」といった性格と気の働きとの両義を併せ持つものである。つまり、自然界のあらゆる自然現象や自然物は皆、「公正無私、健やか、和やか」といった性格を持つ気の働きによって作り出されたものである。「公正無私、健やか、和やか」という性格は、「天地の心」が無生物や生物や人間に賦与されることに伴ってそれらの物体にも備わるのである。
「物の情」は、物体のその自身の性質を現す働きである。「草木禽獣の情」は、「五常の性」から発生した原初的「情」と、原初的「情」が具体的な物に対して向かうことによって生じた志向的情感、及び知覚、といった内面的な働きである。
「人の情」には、「本然の性」から発生した「四端」と「気質の性」から発生した「七情」の二種類がある。「四端」は原初的「情」であり、「七情」はその一部分が原初的「情」となって現れる。原初的「情」の働き方によって生じた幾つかの異なる心の働きが派生的「情」であり、派生的「情」には「意」「志」「知」「思慮」などといった要素が含まれている。
「意」と「志」はともに志向的情感であるが、その性格は「志は剛、意は柔」のように正反対であり、意欲、作用、忖度、感応が「意」の具体的な内容である。「知」はつまり「知覚」または「知識」であり、「知覚」は、神経感覚・器官感覚・生命感覚・道徳感覚を意味し、「知識」は認識や見識を意味する。「思慮」はつまり「思」であり、思惟・思索を意味し、派生的「情」においては枢要な働きを担うものであるが、不善を生ずるものと認識されている。No potential conflict of interest relevant to this article was reported.岡山大学大学院社会文化科学研究科Acta Medica Okayama1881-1671402015熊沢蕃山の「孝」(1)(12)ENLuyiSun10.18926/53846No potential conflict of interest relevant to this article was reported.岡山大学グローバル・パートナーズ, 岡山大学教育開発センター, 岡山大学言語教育センター, 岡山大学キャリア開発センターActa Medica Okayama1881-5952102014朱子の「理」3546ENLuyiSun10.18926/53171 本稿では、朱子のいう「理」を、できるだけ深く掘り下げて解明することを試みる。
朱子学の重要な命題の一つである「理一分殊」とは、あらゆる物体がみな仁義礼智という
共通の性を有するが、仁義礼智の性のその具体的な現れとしての性が物によってそれぞれ異
なる、ということである。
理は、性にだけではなく、天、命、道、徳といった概念にも緊密に関係する。天としての
理は、理が人間の意志の如きものが全くない自然なるものであることを示すものであり、命
としての理は、本然の性(仁義礼智)または貧富・貴賤・死生・寿夭などといった運命的な
規定を意味し、道としての理は、事物の扱い方や物の使い方を意味し、徳としての理は、事
物の働きのあるべき様としての準則を意味する。
性はただ仁義礼智に過ぎない。仁義礼智は、ただ「五常の性」、つまり人間に内在する仁
義礼智信といった道徳の徳目だけを意味するものではなく、物の固有属性、つまり物に内在
するそのどういう働きをするかを決めるものとしての機能・能力などの属性をも意味するも
のである。
仁義礼智が「五常の性」と物の固有属性としての機能・能力との両義を併せ持つが故に、
「性即理」という命題が成立しうるのである。No potential conflict of interest relevant to this article was reported.岡山大学大学院社会文化科学研究科Acta Medica Okayama1881-1671382014熊沢蕃山の「神」(1)(12)ENLuyiSun10.18926/53059No potential conflict of interest relevant to this article was reported.岡山大学国際センター, 岡山大学教育開発センター, 岡山大学言語教育センター, 岡山大学キャリア開発センターActa Medica Okayama1881-595292013熊沢蕃山の「神道」135146ENLuyiSun10.18926/52197 熊沢蕃山の思想を、朱子学または陽明学と比較しつつできるだけ深く掘り下げて解明することを試みる。本稿では、その本体論と生成論について考察する。
太虚と太極の両概念を用いるところにその本体論の特徴が見られる。気だけを本体とする本体論、或いは理だけを本体とする本体論では、思索が厳密になればなるほどその理論の行き詰まりが露呈する、ということに気付いた蕃山は、理と気の両方を本体とする必要があると考えた、と推察される。蕃山のいう太虚と太極は、両方とも理と気であるが、太虚は気に重きを置き、太極は理に重きを置く、という思想的な操作を通してその本体論に
用いたと思われる。
蕃山にあっては、「五行説」と「四象四化説」の二種類の生成論が見られる。「五行説」とは、陰陽の二気と木火土金水の五行が天地万物を生成する生成論であるが、陰陽の気はどのように生じたのかが常に問題となっていた当時、蕃山は、太虚の理が感じるものだとし、理が感じることによって陰陽を生じたとして、理は神だと認識した。そして、太虚は永遠に存続する万物の根源として神道だと解釈された。
「四象四化説」とは、日月星辰の四象と水火土石の四化が天地万物を生成する生成論である。日月星辰は天であり、水火土石は地である。万物も人間もすべて天地の気を受けて生成される存在であるが故に、天地は父母だとする。この考え方が、蕃山の独特の「孝」思想を導き出したのである。
孝の字は、老と子で構成され、老は理で、子は気であり、これは太虚を象っている、と蕃山はいう。太虚は神道であれば、孝は神道を象った字ともなるのである。No potential conflict of interest relevant to this article was reported.岡山大学国際センター, 岡山大学教育開発センター, 岡山大学言語教育センター, 岡山大学キャリア開発センターActa Medica Okayama1881-595282012朱子の「神」123142ENLuyiSun10.18926/49295本稿では、朱子鬼神論の、「在天の鬼神」と「在人の鬼神」及び「祭祀の鬼神」という三
つの内容について考察し検討を加えて、朱子のいう鬼神・神とは何かを探究する。
「在天の鬼神」では、鬼神に、自然現象と気の作用・働きとの二つの意味を与えつつ気の
作用・働きとする方向に収斂している。神も気の作用・働きであるが、鬼神は可視的な痕
跡を残すのに対して、神は痕跡を残さない。神は、生気・生意とされているが、物を生ず
る過程または無くす過程のその両過程のどちらにおいても作用するものだから、気の聚と
散の両運動を支える力と推察される。
「在人の鬼神」では、鬼神は魂魄と言い換えられている。魂魄は、ある特定の事象を指し
ていう語よりもむしろ二項対立または相対する事項を示す概念である。魂は、呼吸する気、
身体の動き、「思慮・計画」などの心の働き、などの諸義を併せ持つのであるが、これに対
して、魄には、躯体血肉、耳や目などの器官の働き、「記憶・弁別」などの心の働き、など
の諸義が与えられている。魄は、体内に内在する身体活動の源としての力、つまり生命力
をも意味する。魂魄、神、精神は同義の概念とされている。
「祭祀の鬼神」では、鬼神は主に天地山川の神霊や先祖の霊魂などを指して言うものであ
るが、祭祀論においては、特に人が死んで散じた気つまり散じた魂魄を指して言うもので
ある。祭祀は、子孫が、祭りを行い、誠敬を尽くして、先祖の既に散じた気、つまり散じ
た魂と魄を招き寄せて結合させる行為である。この魂魄は、神であって気の作用・働きで
あるが、また「気の精英」と称される凝固しても形質を形成しない極めて清らかな気でもある。No potential conflict of interest relevant to this article was reported.岡山大学国際センター, 岡山大学教育開発センター, 岡山大学言語教育センター, 岡山大学キャリア開発センターActa Medica Okayama1881-595272011朱子の「太極」と「気」4962ENLuyiSun10.18926/53575朱子の本体論には解明を要する幾つかの間題がなお存すると思われる。朱子にあっては、根源的な存在、つまり本体は太極であり、太極は即ち理である。これは既に諸家によって指摘されているものであるが、しかし、理の原則を扱った説明には、理は造作しない、或いは造作できないという規定があるのに対して、太極についての論述にはこれと同様な規定はない。これはなぜか。それから、太極は本体で、理は即ち太極であるならば、理は気より先に存在するのは極めて明白な事柄であるが、にもかかわらず朱子の弟子達は「理気先後」について執劫に質問をし、それらの質問に対しての朱子の答えは一様ではない。これはなぜか。朱子にあっては、恐らく、気が三種類の様態で存在していると考えられていたのであろう。即ち、太極としての気(理気未分の状態)、陰陽としての気(気或いは一気)、五行(質)としての気、という三つの存在様態である。朱子のいう気は、実際は陰陽二気を指すと思われる。太極は気ではあるが、その気はまだ理と分離していない。この状態にある太極としての気が形而下的な存在としての陰陽二気と混同されるのを恐れて朱子は、太極は気だと言うのを、なるべく避けようとしたのである。太極としての気は、占める空間的な場がないために、直ちに陰陽二気になってしまうものだから、無形から有形へと変化するという過程において言えば、太極が先に存在するが、実際の生成順序においては、時間的な先後はない。これが故に、朱子の答えはいつも瞭然としないのである。No potential conflict of interest relevant to this article was reported.