岡山大学大学院教育学研究科 Acta Medica Okayama 1883-2423 151 2012 六人部是香の国学学びにおける篤胤学の受容 1 11 EN Yoshikazu Yamanaka 六人部是香(寛政10年−文久3年)は,山城国向日神社の神職として,京阪地域を拠点に 活動した国学者である。自己の学問形成の過程において,初め本居大平を師とした六人部は, その後平田篤胤の門人となることを契機として,それまでの歌学を中心とした学問の内実を 転回させていく。本稿は,在地社会における六人部の神職としての位置と学びの過程及び篤 胤学の受容の経緯を考察し,幕末期の神職における国学学びの一様態を明らかにする。 No potential conflict of interest relevant to this article was reported. 六人部是香 地域における神職 国学学び 篤胤学
岡山大学大学院教育学研究科 Acta Medica Okayama 1883-2423 148 2011 貝原益軒における「民生日用」に資する学問と教育論の展開(2)―『家訓』にみられる家意識と教育の問題を中心に― 49 60 EN Yoshikazu Yamanaka 近世の日本に輩出した儒者の中で,江戸時代前期,すなわち十七世後半から十八世紀初頭にかけて活躍した貝原益軒(寛永7,1630-正徳4,1714)は,教育行為を人間に必須の営みとしてとらえた儒学者である。当時における教育言説の語られ方は,学ぶ側の心得として説かれるのが一般的であった。その中で,益軒は子どもを教え育む役割を担う大人の在り様に議論の重点を移し,教える側の視点にたって,教育の在り方に関する言説を具体的且つ多様な人々が実践可能な形で展開した。本研究は,このような貝原益軒に着目し,その教育論の特質を,学問論としての民生日用の意識との関連において考察することをとおして,近世の日本社会における子青と教育に関する課題意識と具体的な方法論を明らかにすることを目的としている。第一報(『研究集録』136号,2007年,岡山大学大学院教育学研究科)では,「格物窮理の工夫と有用の学」のサブタイトルのもとに,(1)益軒における教育論の展開の時代背景(2)太平の世に対する益軒の肯定的な受容態度(3)人々の安定した生き方に焦点化された言説の特質(4)格物窮理の工夫と有用の学を目ざす益軒の学問の概要(5)世に利益をもたらし,庶民の生活に役に立つ経験的な実学の内実などを明らかにした。第二報の本稿においては,第一報の基礎的考察を踏まえ,益軒の『家訓』を主要な考察の対象として取り上げる。『家訓』に見られる益軒の家意識の内実と教育的思考との連関を考察することにより,民生日用のための有用の学を目指した益軒教育論の特質が家の安定との関連において解明されるとともに,江戸期における家の確立と安定に資する教育言説の一端も明示しうるであろう。 No potential conflict of interest relevant to this article was reported. 貝原益軒 『家訓』 家意識 後継者教育
岡山大学教育学部 Acta Medica Okayama 0471-4008 136 1 2007 貝原益軒における「民生日用」に資する学問と教育論の展開(1)―格物窮理の工夫と有用の学― 123 134 EN Yoshikazu Yamanaka 本研究は、わが国の近世において教育を人間に必須の営みとして把握するとともに、教える側の視点から、教育のあり方についての見解を具体的に展開した貝原益軒の学問と教育論の特質を、民生日用との関連において明らかにすることを目的とする。本稿ではまず初めに、益軒の教育論が展開される時代背景の特質を考察し、益軒が太平の世を肯定的にとらえる一方、世の変化と行く末をも見据えながら、人々の安定した生き方を模索したことを指摘した。次いで益軒の学問について、「格物窮理の工夫と有用の学」の視点からその特質を考察し、益軒においては実学の内実が、広く世に益となるという観点からとらえられた事により、多様な教訓本をはじめとする著作が生み出されるにいたる事情を明らかにした。 No potential conflict of interest relevant to this article was reported. 貝原益軒 学問と教育論 太平の世 安楽 格物窮理 有用の学 民生日用
岡山大学教育学部 Acta Medica Okayama 0471-4008 80 1 1989 近世における国学普及の一形態 近世国学の受容と普及に関する教育史的研究・序説 171 191 EN Yoshikazu Yamanaka 近世の国学はこれまで、倫理思想史、政治思想史、文学史、歌学史などの諸側面から研究の蓄積がなされてきた。しかし、近世の国学は、これら諸領域からの研究によっても明らかにしえない側面が少なからずある。では教育史の固有の問題としての国学研究とは一体何か。その一つとして、従来の国学研究がともすれば附随的にしか取り上げなかった、国学の受容・普及という問題があると思われる。そこで本稿においては、一定の社会階層によって受容された国学が更に広範な広がりをみせて普及していく過程に着目し、国学の学習者層の量的な拡大及び質的な多様性などの視点から実証的考察をすすめることによって所期の目的にせまりうるであろうと考える。そのための基礎作業として、国学そのものの教育的思想意義についての研究は不可欠の前提である。これに関しては、すでに「国学における教化論の性格」と題した三編の論稿をまとめているので参照されたい。本論はこれらを基礎にすえてそれとの関連において展開されるものである。具体的には、国学学習者の集団形成がなされたものとして国学の「社中」をとりあげ、社中における学習活動をめぐる諸問題、国学受容の社会的意義等について検討を加えていく。 No potential conflict of interest relevant to this article was reported. 近世国学 教育的思想 社中
岡山大学教育学部 Acta Medica Okayama 0471-4008 127 1 2004 平田篤胤の国学における求心力の性格 『呵妄書』の内容を中心に 11 20 EN Yoshikazu Yamanaka 本稿は『幕末維新期の国学における学校論史の研究』と題する研究の一環として,平田篤胤の国学における求心力の性格を,篤胤の最初の著作である『呵妄書』の内容を中心に検討することを課題としている。幕末変革期において平田国学が全国的に大きな知的集団を形成していったその一つの要因として,篤胤国学の持つ求心力の存在を考え,『呵妄書』に依拠してその初発の時点での特質を考察することを目的とするものである。 No potential conflict of interest relevant to this article was reported. 幕末変革期 平田篤胤 国学 求心力 『呵妄書』
岡山大学教育学部 Acta Medica Okayama 0471-4008 106 1 1997 名古屋社中の形成と「国学」学びの展開 149 156 EN Yoshikazu Yamanaka 尾張地方において、国学が普及する上で大きな勢力をもっていたのは、田中道麿とその社中であり、彼らは宣長が寛政元年に名古屋へ出講する以前から国学の学びを展開していた。天明4年に道麿は死去するが、その後は、道麿社中の主な人々は宣長に入門した。こうした状況の中で、宣長が名古屋に出講し、漸次門人の増加をみた。尾張地方のこれら宣長門人たちは、その内の幾人かが会集し、連絡を取り合っていくなかで次第にまとまりができ、名古屋社中としての組織が形成されていった。こうした鈴屋の社中の基本的な性格としては、「社中は地方在住の門人が相互に連絡し、便宜を図るための組織として誕生したもので、鈴の屋塾からの情報の伝達はもちろん、通信教育のさいの往復書簡の集配や授業料の一括納入などに活躍したが、一方ではまた、時おり集会して勉強するための組織でもあった。」といってよいであろう。その際、各地に散在する宣長門人がこのような社中としてまとまっていくには、鈴屋と彼らの間に介在して世話役を務め、門人の組織化を進める中心的な人物が存在して初めて可能になる。本稿では、このような世話役の存在に注目して名古屋社中の形成の過程をたどり、次いで、宣長没後も名古屋社中において指導的な役割を果たした植松有信(宝暦8年[1758]〜文化10年[1813])を中心として名古屋社中としての「国学」学びの様相を考察していきたい。 No potential conflict of interest relevant to this article was reported. 国学 尾張地方 田中道麿 植松有信
岡山大学教育学部 Acta Medica Okayama 0471-4008 105 1 1997 幕末期国学の地域における展開(2) 三河地方における羽田野敬雄の活動を中心に 195 202 EN このように、在地の文化人と連携し、富裕な町人層による財政面での援助を基盤として展開された羽田野の活動の中に、地方に生きる知識人によって担われた文化運動の意義を見ることができるであろう。羽田野の事例は、幕末期における国学運動が、文化史的・教育史的側面からも考察されるべきか豊かな事実を内包していることを示唆している。 No potential conflict of interest relevant to this article was reported. 幕末期国学 羽田野敬雄
岡山大学教育学部 Acta Medica Okayama 0471-4008 104 1 1997 幕末期国学の地域における展開(1) 三河地方における羽田野敬雄の活動を中心に 123 132 EN Yoshikazu Yamanaka 本稿は、幕末期国学の地域における展開について、三河国吉田の平田篤胤門人、羽田野敬雄[寛政10年(1798)―明治15年(1882)]の活動を中心に考察し、地方知識人としての国学者による営為の教育史的意義を明らかにする事をねらいとしている。 No potential conflict of interest relevant to this article was reported. 幕末期国学 平田篤胤 羽田野敬雄
岡山大学教育学部 Acta Medica Okayama 0471-4008 116 1 2001 近世日本における子どもの労働に関する教育史的研究 近世社会の家職と子どもの労働を中心に 131 146 EN Yoshikazu Yamanaka 前近代の社会において子どもたちが日常の生活の中で労働に励むことは,家族労働の重要な要素であり,また一人の人間として社会的に自立した生活を営む事を可能にするために欠かすことの出来ない実践であった。前近代の社会は子どもたちの成長を促すいとなみの中に労働という行為を積極的に位置づけていたといえる。家職を基礎とした近世社会では家業を継承し,存続させることが家族成員の最大の関心事であると同時に責務でもあった。家の後継者である子どもの教育は,実際の家業に子どもを参加させることによって展開される。それは「一人前」の人間の形成を意図した教育意識に裏打ちされたものであった。本研究は,近世日本における子どもの労働に関する教育史的研究として,おもに近世社会の家職遂行における子どもの労働の位置づけに関して,農民家族のなかでの労働の担い手としての子どもという側面から研究することを目的とする。 No potential conflict of interest relevant to this article was reported. 近世社会 家職 勤労倫理 家の子・村の子 子どもの労働
岡山大学教育学部 Acta Medica Okayama 0471-4008 98 1 1995 藤井高尚の教訓本執筆 13 21 EN Yoshikazu Yamanaka 備中吉備津神社の神職であった藤井高尚(明和元、1764年〜天保11、1840年)は、鈴屋門の高足として本居宣長の学問を継承した近世後期を代表する国学者の1人である。『伊勢物語新釈』や『古今和歌集新釈』などの古典研究、および『消息文例』や『松の落葉』といった文章作法書や随筆の執筆などからもわかるように、高尚の国学はおおむね宣長学の歌文の領域を継承したものとされている。しかし、そのなかで『浅瀬のしるべ』は「世人の教えとなるべき諺四十八条を取り上げそれらに託しつつ、著者の日頃の所懐を得意の雅文で綴った」一種の教訓本の体裁をとり、高尚の著作としては異色の部類に属するものである。藤井高尚の国学に関して、筆者はこれまで3回にわたり、本研究集録に「化政期国学の一断面」と題する論考を掲載し、藤井高尚の国学の教化論的性格についての考察を行った。しかし、それらの論考は幾分論点が多岐にわたり、その結果焦点が拡散したうらみがあった。そこで本稿において改めて先の3論考の内容を集約するとともに、藤井高尚の国学の教化論的性格を化政期の教訓をめぐる状況の中に位置づけておきたい。 No potential conflict of interest relevant to this article was reported. 藤井高尚 備中吉備津神社 本居宣長 教化論
岡山大学教育学部 Acta Medica Okayama 0471-4008 112 1 1999 六人部是香著『道之一言』 (1 5) EN Yoshikazu Yamanaka ここに翻刻するのは、六人部是香著『道之一言』の本文および跋文である。同書は豊橋市立中央図書館所蔵本であり、「参河国羽田八幡宮文庫」の旧蔵印が押された、嘉永六年初冬の刊記のある版本である。著者の六人部是香(寛政十〜文久三)は山城国乙訓郡向日神社の神主であり、平田篤胤門の国学者である。 No potential conflict of interest relevant to this article was reported. 史料翻刻 六人部是香 『道之一言』
岡山大学教育学部 Acta Medica Okayama 0471-4008 96 1 1994 化政期国学の一断面(下) 藤井高尚の国学における教化性の考察を中心に 61 75 EN Yoshikazu Yamanaka 本節においては、まずはじめに高尚の国学の全体像をとらえ、次いで『浅瀬のしるべ』における高尚の諺解釈の分析を通して高尚の国学に見られる教化意識の特質を検討し、最後に『道のしるべ』のなかに展開される「神ノ道ノ教」に基づく教化論の特質を、人間像を中心に考察していくこととする。 No potential conflict of interest relevant to this article was reported. 化政期国学 藤井高尚 教化論
岡山大学教育学部 Acta Medica Okayama 0471-4008 95 1 1994 化政期国学の一断面(中) 藤井高尚の国学における教化性の考察を中心に 77 85 EN Yoshikazu Yamanaka 国学思想において、このような被治者たるものの心構えが、政治論的文脈の中で説かれるようななったのは、前章で指摘したとおり本居宣長においてであった。すなわち、宣長は『古事記伝』において「政」という言葉について次のようにのべている、政は、凡ての君の国を治坐す万の事の中に、神祇を祭賜ふが最重事なる故に、其余の事等をも括て祭事と云 とは、誰も思ふことにて、誠に然ることなれども、猶熟思に、言の本は其ノ由には非で 奉仕事なるべし、そは天下の臣連八十伴緒の天皇の大命を奉はりて、各其職を奉仕る、是天下の政なればなり、さて奉仕るを麻都理と云由は、麻都流を延て麻都呂布とも云ば、即君に服従て、其事を承はり行ふをいふなり 即ち「政」は「奉仕事なるべし」とのべ支配を形成する命令と服従の二つの要素のうち、被治者における服従の側面から政治を基礎づけたのであった。命令と服従あるいは治者と被治者との関係は「身分制的」社会における「上と下」の関係に外ならないのだが、本節ではこの問題に関して宣長学における「世間の風儀」の意義を中心に考察していくことにする。 No potential conflict of interest relevant to this article was reported. 化政期国学 藤井高尚 本居宣長
岡山大学教育学部 Acta Medica Okayama 0471-4008 90 1 1992 化政期国学の一断面(上) 藤井高尚の国学における教化性の考察を中心に 203 213 EN Yoshikazu Yamanaka 本稿は、備中吉備津神社の神職であった国学者藤井高尚(明和元、1764年〜天保11、1840年)に関して、かれの教訓的著作『浅瀬のしるべ』(文化9年)及び「道のしるべ」(文政7年『三のしるべ』上の巻)の検討を中心に、高尚の国学思惟における教化性の問題について考察することを通して、化政期国学の一断面を明らかにすることを主たる課題とするものである。 No potential conflict of interest relevant to this article was reported. 化政期国学 藤井高尚 備中吉備津神社 教化論
岡山大学教育学部 Acta Medica Okayama 0471-4008 73 1 1986 国学における教化論の性格(3) 復古主義的教育理念の成立 47 62 EN Yoshikazu Yamanaka 本稿は、まず[T]において主として鈴木雅之と岩倉具視を手がかりにして、王政復古前における天皇統治の原理がどのように把握されていたかを明らかにする。次に[U]において王政復古直後に形づくられようとした天皇像の基本的性格を矢野玄道と大久保利通の見解によって考察する。[V]においては、[T][U]をうけて、明治維新政府の最初の教育制度構想である学舎制の特質を、矢野玄道の国学思想と学校構想とに焦点をあてて考察し、明治初頭の復古性を教育理念の側面から明らかにしたい。これらの作業は、教育勅語によって確定される民衆の臣民化政策の性格を、その道程の発端の時点において明らかにすることになるとおもうのである。 No potential conflict of interest relevant to this article was reported. 国学 教化論 鈴木雅之 岩倉具視
岡山大学教育学部 Acta Medica Okayama 0471-4008 68 1 1985 国学における教化論の性格(2) 幕末維新期の二人の国学者の考察を通して 35 45 EN Yoshikazu Yamanaka 本稿の目的の一つは、維新変革期の国学者の一人、鈴木雅之の中に、天皇への求心的な姿勢の実相を探るとともに、それとのかかわりにおいて提示される雅之の学校構想がいかなる機能をもつものであったのかを考察することにある。後述するように、雅之においては天皇への求心的姿勢は「人心一和論」として展開する。それは朝廷=天皇が、民衆統合への確固たる収束点として政治的に明確化されてはじめて可能になることであった。ところで、後期国学全体に目を向けたとき、そこには雅之のごとく政治的統合の核として天皇を位置づける以前に、「神の御心」を媒介項として民衆の心の把握を図り、それを通して一定の秩序を確保するという側面があったことを忘れてはならない。「八雲立つ出雲の神に神習ひ習ふや道の学問なるらむ」「幽世の神の御前を畏みて愧る心を人なわすれぞ」と詠んだ、下総の農民、宮負定雄はそのような国学者の一人であった。神習ふとは人々が神の御心を行動の規制原理として心の内に持つことを意味した。そこで期待されている行動とは「身を慎み、身分に応じて、世の為人の為に、それぞれの功を立て」るということに包括されうるものである。しかも宮負は人々にこのような行動を通して、村落が和合し、上下が和合する状態が現出するものととらえたのである。ここに、宮負が村落問題に対して教育的に対処しようとした姿勢を見ることができよう。本稿はまずはじめに[T]において宮負定雄について考察する。宮負の和合論を検討し、そのなかで神の御心がいかなる意義をもつものであったかを明らかにする。次に[U]では、鈴木雅之について、尊王論、人身一和論、学校思想の三点から考察する。以上の考察を通して、幕末維新期の国学にみられる教化論の性格が、民衆統合論の視角から明らかになり、学校教育思想がもつ意義も明確になるものとおもう。 No potential conflict of interest relevant to this article was reported. 鈴木雅之 宮負定雄 国学 教化論
岡山大学教育学部 Acta Medica Okayama 0471-4008 64 1 1983 国学における教化論の性格 109 121 EN Yoshikazu Yamanaka 本稿が明らかにしたいとおもうことがらは以下のとおりである。すなわち、本居宣長の古道論の特質を教えとの関連において考察し、このことを通して宣長の古道論において、道学的といってもよい性格がみられることを明らかにする。そしてこの道学的性格が、その後、更に積極的に拡充されていくことにより、教化的性格をおびた国学が出現することを、藤井高尚の場合を例にとって検討していくことである。国学における教化論の展開については、従来次のようなことがいわれてきた、「国学神道による教化の障碍は篤胤によってひとつひとつ除去され神道を手段として教化の手は人間の内的心情の奥深くまで滲透する。」ようになったと。だが、本稿のような作業を経ることによって、実は、宣長の学問の歌文の方面での継承者においても、教化への志向がみられることが指摘されねばならないことが明らかになるものと思われる。 No potential conflict of interest relevant to this article was reported. 本居宣長 古道論 藤井高尚 教化論