本稿では、朱子鬼神論の、「在天の鬼神」と「在人の鬼神」及び「祭祀の鬼神」という三
つの内容について考察し検討を加えて、朱子のいう鬼神・神とは何かを探究する。
「在天の鬼神」では、鬼神に、自然現象と気の作用・働きとの二つの意味を与えつつ気の
作用・働きとする方向に収斂している。神も気の作用・働きであるが、鬼神は可視的な痕
跡を残すのに対して、神は痕跡を残さない。神は、生気・生意とされているが、物を生ず
る過程または無くす過程のその両過程のどちらにおいても作用するものだから、気の聚と
散の両運動を支える力と推察される。
「在人の鬼神」では、鬼神は魂魄と言い換えられている。魂魄は、ある特定の事象を指し
ていう語よりもむしろ二項対立または相対する事項を示す概念である。魂は、呼吸する気、
身体の動き、「思慮・計画」などの心の働き、などの諸義を併せ持つのであるが、これに対
して、魄には、躯体血肉、耳や目などの器官の働き、「記憶・弁別」などの心の働き、など
の諸義が与えられている。魄は、体内に内在する身体活動の源としての力、つまり生命力
をも意味する。魂魄、神、精神は同義の概念とされている。
「祭祀の鬼神」では、鬼神は主に天地山川の神霊や先祖の霊魂などを指して言うものであ
るが、祭祀論においては、特に人が死んで散じた気つまり散じた魂魄を指して言うもので
ある。祭祀は、子孫が、祭りを行い、誠敬を尽くして、先祖の既に散じた気、つまり散じ
た魂と魄を招き寄せて結合させる行為である。この魂魄は、神であって気の作用・働きで
あるが、また「気の精英」と称される凝固しても形質を形成しない極めて清らかな気でもある。